祈りにかえて

雑感雑記の文章練習・読書日記・調べもの進捗報告書/140文字以上用メモ

同人誌「On my Beautiful Garden」の解説ペーパー

サマールまで負けずにガンバレ金剛って感じの今回同人誌についてとこれからの榛名本までガンバレ都崎って感じの@ペーパー(たまには第十戦隊とかもかきたい)

 都崎です。
 この前フォロワーさんにお会いしたら「独特の哲学で創作が成り立っている」と仰っていただき、私はTwitterでは哲学女ポジなのかな、と絶妙なドキドキ感と危機感にとらわれました。ただ、これを書いてる今日、本屋に行って買った本が『哲学としての美学―“美しい”とはどういうことか』だったことと、左記の「感と」を変換しようとしたらバッチリ「カント」になったのでコリャ哲学女だなと。本当Twitterに面白かった本の引用文とか載せるのやめよ!?需要ないよ!!というわけで今回は「On my Beautiful Garden」の哲学みたいなのを語ります。

 美しい話を描きたいってはなしのつもりだったんですけど(過去形)。 
 「僕は美しい飛行機を作りたいと思っています」みたいな気分でブーンって描き始めたんですが、この「美しいものを作りたい」って概念を考えるたび、A・シアラー『スノードーム』の「美しいものは美しい人によって作り出されるとはかぎらない。実際にはむしろその逆であることが多い」という麗文を思い出します。一時期Twitterで話題になった「『風立ちぬ』を観て驚いたこと」というブログレビューは「美しさを求めることの残酷さ」を上げていますが、 「二郎の生の目的――かつて夢で見た飛行機を作ること――の実現のためには、多数の犠牲が必要となる」という土井伸彰の指摘通り、美しさを求めることって本当なにかを犠牲にしなきゃならない。作品美は創造者の美を表してるわけではないし(素晴らしい作品を作るには精神を削るのがいっぱいでその他なんて構ってらんないんだと思うし興味もない、と考え思うのは新妻エイジがスウェットキャラなこと)、身体美を求めるなら食を絶つ(『「父の娘」たち』曰く拒食症者は「美のために食を拒んで死ぬことさえできる、おそるべき精神主義者たち」 )とかなんとか。

 金剛の戦争の中でつちかわれていたはずのけれど”美しい思い出”も、きっと何かを犠牲にしてできていたはずで、そういう意味では比叡と霧島の死ではじめてその犠牲が表面として現れ、ツケを払う時が来てしまったんだと思います。そして結局彼女はその犠牲のツケに飲まれることなくむしろ彼らも”美しい思い出”に昇華する。彼らをも犠牲にすることを選択する。それこそ残酷な話で、すべて彼らが過去のものになってしまったという薄情な気づきなんですけれど(本同人誌の「でも、今回で分かったわ」という台詞の「今回」という言葉で彼ら、第11戦隊、愛しい弟たちの死を形容することの矮小化、とてつもない白々しさ!)、金剛が例えばあのサマール沖での独壇場を演じる精神を貫くには、やはり彼らは美しい思い出で、過去で、そして決意宣誓の糧にならなきゃならない。
 やっぱり金剛が極東に売られたのはそもそもは己が軍艦だったからで、彼女はそれを自覚していて、数度くらいは絶望して人間になりたい瞬間があるのかもしれない。 売られたことも一人金髪なことも弟が戦死することも齢三十で死ぬことも年を取った分だけ美しく老いないことも、すべては軍艦だから。けれども、それでもヒールをはいて子供を作って畳の上で死ぬ人間らしさよりも、きょうだいを愛するという人間らしさよりも、なによりも軍艦であること、それを彼女は選んだんだと思います。すばらしいものになるはずのもしもの夢は人間らしく人間として生きることで、なによりそれに憧れてるんだけど、でも、その思いは封じることに決めている。それこそが売られる前、お隣の金髪の彼女が教えてくれた誇りだと信じているから。この国に初めて来たとき会った金髪の先輩の彼女に誓ったから。金剛の犠牲は人間らしさなんだよね。見果てぬ夢です。
 「きょうだい愛の終わり」は11戦隊の死によって逆らえず押し寄せてきたものだけれど、積極的に断ち切るのは金剛からだといい。(積極というには取り乱してるけど。)
 

 最後になりますが、今回は兵器擬人化というよりその合間合間の物語補完話みたいになってしまい申し訳ない。最初はコミティア出る予定だったので、一次創作の人たちにも楽しめるような擬人化みたいなのを一回描きたかったのです。早めに榛名の補完も描きたいです。
 相すみません、ありがとうございました。