祈りにかえて

雑感雑記の文章練習・読書日記・調べもの進捗報告書/140文字以上用メモ

中井久夫『統合失調症の陥穽』、阿久津隆『読書の日記』、『世界の艦船 海上自衛隊潜水艦建造史』

  終わりが見えてきたときに往々にしてそうなるように、すごく読み方が雑になっていった。「どうなるの?」が先に立ってしまって、注意がすごく雑になる。「どうなるの?」に直接関係のない描写とかをしっかり読めなくなる。

 (『読書の日記』)

  『ユリイカ』とか『現代思想』とか読んでいると、論文の並びには論文の「質」も関係して配置がされているのかな、と思ってしまいます。最後の方の『ユリイカ』のエッセイをかっちりしっかり読む人はいるんでしょうか。逆に最後は気合入れて読む人もいる?と思うし、トップバッターも入りがキツイので難しい……アンソロ作る人とかどうしてるんですか?(聞きたい)

 

  艦船の本を読む気があまりしません。まぁ擬人化漫画もあまり描く気がしないのでいいのかな、と思っています。というか知識が抜けたせいで逆に描けなくなってるかもしれないですね…。まあいいや。

 

  『統合失調症の陥穽』を読了しました!良くも悪くも「水っぽい」印象を受けました。水のようにするする&水のようにあっさり、という……

 

「こんな理由で人を殺すわけがない」とか、そういうことを思うわけではない。杜撰な人間がいる。とてもいいと思う、そんな人間もいくらでもいると思う。でも登場人物が杜撰であることと、作者がその杜撰さを説明しないことのあいだには大きな隔たりがある気がしていて、なんだろう、うまく書ける気がしないのだけど、作者の手抜きのようにしかどうしても思えない、作者に都合のいいように杜撰であるようにしか思えない。

(『読書の日記』)

「ゼーバルドですか?」と声を掛けられた。見ると日本語を母語にしているらしい同年輩の女性が横にいて、僕ではなく僕が開いている本に視線を落としているのが見えた。ちょうどいかにもゼーバルドらしい、写真とか文章が併置されたページだった。それで「アウステルリッツです」と言うと、「いいですよね。でも私は土星の環がいちばん好きです」と小さな声が返ってきた。それは最初の声よりも自信がなさそうな響きをしていた。「ロウストフトでしたっけ、はしけのやつ。僕はあれのなにか貴族的な人たちによる花火とかが打ち上がる明るい催しが行われているその外で、川かなにかで、人々が明るむ空と城かなにかを見ながら浮かんでいる、その情景をこよなく愛するものです、ボンジュール、私は阿久津と申します。ところであなたはどちらまで?」「à paris」女の発音は完璧だった。それは僕にはアパキにしか聞こえなかったが、私はそれが「パリへ」という意味であることを即座に理解した。アンシャンテアンシャンテ、では、一緒に参りましょう、今この瞬間、私はわたしたちの宣戦布告という映画を思い出します、その映画にはこんな場面があるんです、と僕は言った。

(『読書の日記』)

 

   『読書の日記』を読んでいたら気づいたのですが、このブログには「どこに行った」だの「どこどこで〇〇した」だのがないですね。まぁ毎日同じことを繰り返し同じ休みが来ています。だいたい休みは家にいます。

   小説を書いていてもほぼ全てが心理描写になってしまうんです。少しは内面以外にも目を向けよう!

 『読書の日記』がめっっっちゃ面白いです。

 

  昭和30年10月24日、”くろしお”が横須賀に入港し、ブイ係留した日は小雨だった。10ヵ月待ちわびていた出迎えの家族は、適当な面会所もなかったのでやむをえず艦内に入れたが、夕刻面会人が去ったあとの艦内の床は受け取って以来初めての泥まみれとなった。靴拭いは用意したのだが、術科学校構内の地面はほとんど未舗装だった。

 この一事が帰国後”くろしお”の受けた処遇を端的に物語っていると思う。「日本はアメリカのようにはいかない」。そのことは”くろしお”で帰ってきた乗員にはよく分かっていた。

(『世界の艦船 海上自衛隊潜水艦建造史』)

 

 潮にまみれたことはあった。でも泥にまみれたのは初めてだったかもしれない。民間人だって乗せることなんてまずない。泥だらけの、床がない軍事施設なんてはじめてだった。“軍”ですらないのもはじめてだった。こんな時に苦笑しながら苦労を分かち合う、潜水艦の同胞がいないのもはじめてだった。この国には、ちゃんとした施設も人材も潜水艦も、なにもなかった。そしてそれは、ぼくにも「なにもない」ということだった。