祈りにかえて

文章練習・雑記雑感・読書日記・調べもの進捗報告書/140文字以上用メモ

感想が無いという感想

 この前日本現代小説……もとい『最愛の子ども』を読みました。

 

最愛の子ども

最愛の子ども

 

 

 付箋は一枚しか貼らなかった。

「伝承っていうのはそういうもんなんじゃないの?いちばん初めに誰が語りだしたのかわからないし、設定の詰めも甘くて、甘い分ご都合主義で」草森恵文はそう言う。「すごく人気のある伝承は、語り継がれるうちにみんなの欲求に合わせていろんな要素がつけ加えられて、辻褄合わせもそっちのけでどんどんふくらんで行くの」

  ぼ…「ぼくらのおきて」の概念をたった数行で~!!みたいになりました。それはいいんですけど……。

 

 最近こういった現代小説ではなくノンフィクションを読んでいるのは、「行間を読む」「雰囲気を味わう」「正解や答えを自分から模索する」ことから逃げているからなんじゃないのかな、と『最愛の子ども』を読んで感じました。端的に言うと何が書いてあるんだか半分と少ししか解読できなかった。速読しすぎているのもあるし余韻や言葉の裏が読めてなかったです。文章は簡単だし簡単すぎるんですけど。

 「物語」を読めない、というのは、結構な欠点なのでは……と思います。

 やっぱり創作をする人はノンフィクションだけを読むのはいただけない。積極的にフィクションを読んでいきたいです。映画も観るよ。

***

 (関係ない話)

 「物語」という言葉の使い方が印象的なのが、二階堂奥歯と村上春樹「東京の地下のブラックマジック」と『聖地巡礼リターンズ』の序文です。

彼らは物語というものの成り立ちを十分に理解していなかったのかもしれない。ご存知のように、いくつもの異なった物語を経過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語だ」と判断することができる。しかしオウム真理教に惹かれた人々には、その大事な一線をうまくあぶりだすことができなかったようだ。つまりフィクションが本来的に発揮する作用に対する免疫性を身につけていなかったと言っていいかもしれない。

(『村上春樹雑文集』「東京の地下のブラックマジック」)

宗教はそれぞれ独自の物語体系を提示する。人は縁あって宗教の物語と出偶う。しかし、「この物語は私のためにあった」という事態になれば、もはや他の物語は必要なくなる。他の物語では代替不能となる。そのとき、その物語はまぎれもない事実となる。物語が主体的事実となるのだ。そして人は救われる。

(『聖地巡礼リターンズ』)

  後者の「物語」は「フィクション」とは別の使い方をしてるのかしら。いずれにせよ私は「良い物語」と「悪い物語」の区別がついていない気がして怖いので、最近はフィクションを摂取するように心がけています。

 

 ↑特にこれ